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2005.03.09

宗教の坩堝

私は宗教が苦手だ。宗教がもたらした文学や美術などの芸術には、それを作り上げた人々のパワーに圧倒され畏敬の念を覚えることが多々あるが、こと信仰とか思想ということになると話は別だ。信仰する心をはぐくむような環境で育ってこなかったというのが最大の理由だろうが、成長過程で経験した我家の思想・信仰事情というものも大きく影響している。

なんでいきなりこんなことを書き出したかといえば、この週明け突然親族の葬儀に列席しなければならないという悲しいことこのうえないが、突発的アクシデントに遭遇したからだ。
亡くなったのは従兄弟の妻、まだ40代前半での突然の死だった。残された夫や子供たちの心情を思えば本当に切ないのだが、私にしてみれば10年近く顔を合わせることもなく、幼年期を共に過ごしたこともない遠い親戚である。葬儀では悲しみよりも手伝いに奔走し、慣れぬ儀式に非常な気疲れを感じた。
なぜなら、従兄弟の家は神道だったのである。

我家は宗教の坩堝である。父方の祖父はプロテスタントだった。なんとか派だったか忘れたが、教会に属さず、同じ信仰の仲間と聖書の研究をするような会派だったらしい。そして、その息子の父はバリバリのコミュニストにして無宗教論者だ。
母の実家は先祖代々曹洞宗の檀家だが、女系家族の母の長姉は家を継がず神社の神主の家に嫁に行った。その息子である従兄弟は現在現役の神主である。結局母の実家を継いだのは母の次姉であるが、その息子は何を思ったか三十で洗礼を受け、三十五の歳に親の反対を押し切ってプロテスタントの牧師になってしまった。

今は亡き祖母の葬儀のおり私は大学生だったが、当時存命だった家長の叔父(曹洞宗)、牧師の従兄弟、神主の従兄弟、無宗教論者の父の四つ巴ぶりは忘れられない。曹洞宗寺院での葬儀に参加する・しないをよっぴいて議論しているのだ。寺には入らないとか、焼香はしないとか、挙句の果てには宗教論争だ。なまじインテリゲンチャが揃っているだけに性質が悪い。通夜の晩になにやってるねん。という感じだ。

葬儀とは故人の死を悼み偲ぶことこそが至上命題だと思うのだが違うだろうか。その悼む気持ちこそが大事なのであって、葬儀の作法なんてなんでもいいのではないだろうか。焼香だろうが献花だろうが玉串奉奠だろうが、読経だろうが賛美歌だろうが祭詞だろうがいいではないか。故人に心を捧げ、悼む言葉に在りしの姿を思い描けばいいではないか。

私の信仰嫌い・思想嫌いは、基本的にこれらは他社をまきこもう取り込もうとする性質が働いていると感じているからなのだと思う。
自分の中に信じる何かがあればそれでいいじゃないか。というのは小学校の頃に「ナルニア国物語シリーズ」を読み、アスランの説く信仰の論法(信じる神の姿が尊いのではなく、神を信じる心が尊いのだ)によってなるほどと思い、中学校の時に自らの信念でイジメを撃退して以来20年経っても変わらぬ信念であり唯一の思想だ。

とはいえその信じる何かというのが見失いがちであるから人は惑うのだけれど。

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